「大義」は不可能を可能にする・・想念はガンに打ち勝てるのか

18でガンになり全身に転移しながらも72まで生きた叔母がいた。片肺はなく胃半分。乳房も全摘。他にもあらゆる癌に侵された人生。いま思えば活きた理由は「ガンを克服している生き証人」という役柄ではないか。

費用負担も生活も様々な支援者がおり、生き延びて申し訳ない、自分が足枷に、などと微塵も感じさせない環境だったとおもう。これでは説明不足で、宗教と母、つまりは僕の祖母が負うところも大きい。

キリスト教の中でもかなりレアなユダヤ人救済を掲げる一派の象徴的存在だった祖母。その神の身業としての治癒、延命がそこにあった。実際は治療の成果なのだろうが、それを活かす精神性がそこに宿っていた。

「祖母そしてその神を正義たらしめるためには、生き、そして活き、教会で声を張り上げその奇跡の証として語ること」実際に京都に1つしかなかったその一派の教会はその伝道の甲斐あってか全国各所に建立されるまでになった。

どこか微塵でも申し訳ない、足枷せ、などと感じてしまった時点でもはや負けなのだろう。まさに生きてこそ!うちの母も皆と同じく最近若くして亡くなったあの女性を追い、語っていた。こないだ会ったときそろそろだとおもう、と。

長く叔母を看病してたからわかるのだと。理由は「申し訳ない」という気持ちがブログからわかるから、と。その叔母は祖母が亡くなると、そのあとをあっという間に追っていった。見舞うとそれまでのありようがウソのように一気にガン患者らしくなり言葉がなかったのを思い出す。

「病は気から」信じられないことだが、叔母がまさになによりの生き証人だ。人は想像で妊娠した状態にもなるという。僕の知る限り骨と皮だけなその叔母は不思議と美しくすらあった。

本当にたくさんの人の支えになったであろうその叔母の人生は、自身にも周りにも叔母が生きていることを微塵も後悔させない環境、生き延びることに完全なる価値をつくりだせたこと。まさに奇跡なのだろう。たいていは足枷せに感じてしまうものだ。

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2017-06-29

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